
聖武天皇と光明皇后の娘が、聖武天皇の後に孝謙天皇になったってこと?

はい、その通りです!
聖武天皇と光明皇后の娘は 阿倍内親王(あべないしんのう) で、のちに日本初の「女性の皇太子」→「女性天皇(孝謙天皇)」になりました!
でも、その後、「ひと休み期間(天皇別人)」があって、また同じ人が名前を変えて(孝謙天皇→称徳天皇)即位してるんだよ。
🕰 聖武天皇から娘・孝謙天皇への流れ(わかりやすく年号付きで)
▶ ① 聖武天皇(しょうむてんのう)【第45代】
- 在位:724年〜749年
- 妻:光明皇后(藤原不比等の娘)
- 娘:阿倍内親王(のちの孝謙天皇)
🔑 ✅東大寺・大仏建立、仏教ゴリ推し、初めて「上皇」になった天皇
📝 749年に譲位 → 娘の阿倍内親王が即位!
▶ ② 孝謙天皇(こうけんてんのう)【第46代】
- 在位:749年〜758年(1回目)
- 本名:阿倍内親王(あべないしんのう)
🔑 ✅日本初の「皇太子」になった女性
🔑 ✅初の「母親が皇后の天皇」←これまでは妃どまりだった!
→ でも、10年後に 藤原仲麻呂らの勧めで「従兄弟の皇太子」に譲位。
▶ ③ 淳仁天皇(じゅんにんてんのう)【第47代】
- 在位:758年〜764年
- 聖武天皇の甥っ子(=孝謙の従兄弟)
🔑 ✅実権は藤原仲麻呂(=光明皇后の兄の子)が握ってた
→ でも政治混乱でトラブル多発。
▶ ④ 称徳天皇(しょうとくてんのう)【第48代】
- 在位:764年〜770年
- 実は…! 孝謙天皇がもう一回即位した名前(=2回目)
🔑 ✅僧・道鏡との政治介入問題で有名
🔑 ✅女帝としての強いリーダーシップ&仏教への傾倒
🗂 年号まとめ付き!ざっくり流れ
| 天皇 | 在位年 | 特徴 |
|---|---|---|
| 聖武天皇 | 724〜749年 | 東大寺&大仏・仏教国家を夢見る文化系天皇 |
| 孝謙天皇(1回目) | 749〜758年 | 聖武×光明の娘・日本初の女性皇太子&天皇 |
| 淳仁天皇 | 758〜764年 | 藤原仲麻呂政権・孝謙の従兄弟 |
| 称徳天皇(孝謙の2回目) | 764〜770年 | 道鏡問題で超有名・ラスト女帝級 |

聖武天皇はいつ亡くなったの?亡くなってから、娘に譲位?
それともまだ生きてるうちに譲位したの?
孝謙天皇から、いったん淳仁天皇を挟んだのはなぜ?

いい質問ですね!
奈良時代の天皇交代劇って、ちょっとドラマチックなんですよ。
✅ 聖武天皇はいつ亡くなった?譲位のタイミングは?
- 亡くなったのは:756年(享年56歳)
- 譲位したのは:749年(生きてるうち!)
つまり、聖武天皇は生きたまま、自分の娘・阿倍内親王(のちの孝謙天皇)に譲位しました!
日本で最初に「上皇(=天皇をやめたあとも影響力ある存在)」という立場になった人でもあります。
✅ 孝謙天皇→淳仁天皇に譲位した理由は?
📌背景まとめ
- 孝謙天皇(娘)は10年くらい頑張って天皇をしていたけど、やっぱり女性天皇だと「政治運営が大変」と見られていた。
- 特に母・光明皇后が健在だったので、宮中での「母子権力コンビ」が強すぎて、**藤原仲麻呂(光明の甥)**らが警戒。
- そこで「男の天皇を立てよう!」という政治的動きが出てきた。
📌結果
- 758年:孝謙天皇は、自ら従兄弟の淳仁親王(じゅんにんしんのう)に譲位。これが 淳仁天皇。
- でも実際は…孝謙上皇(+光明皇太后)コンビが「影の実力者」としてめちゃくちゃ権力を握り続けていた!
✅ なぜまた孝謙が天皇に戻った?(=称徳天皇)
- 藤原仲麻呂が、だんだんと独裁的になり、淳仁天皇とも意見が対立。
- 孝謙上皇と仲麻呂の対立が激化し、ついに軍事衝突(=恵美押勝の乱/764年)。
- 仲麻呂が敗死したあと、淳仁天皇も失脚・淡路島に流されてしまう。
- そこで、孝謙が再即位 → 名を「称徳天皇」と変えて再び登場!
🎯 ポイントまとめ
- 聖武天皇は 生前に譲位し、初の上皇に。
- 孝謙→淳仁→称徳 という 複雑な天皇の交代劇!
- 藤原仲麻呂との対立 → 恵美押勝の乱(764年)
- 称徳天皇(孝謙の2回目)と道鏡の関係は重要!
| 天皇 | 即位年 | 特徴 |
|---|---|---|
| 聖武天皇 | 724〜749年 | 娘に譲位して初の「上皇」に |
| 孝謙天皇 | 749〜758年 | 聖武×光明の娘。初の女性皇太子 → 女性天皇 |
| 淳仁天皇 | 758〜764年 | 聖武の従兄伯父(お父さんのいとこ)。藤原仲麻呂と組んで一時即位 |
| 称徳天皇(孝謙が再即位) | 764〜770年 | 仲麻呂を排除し復活!道鏡とともに政治を牛耳る |

淳仁天皇は、なんで選ばれたの?
お父さんのいとこって、血筋かなり遠くない?

めっちゃ鋭い視点!
確かに血が遠いように思えるよね
でも、そこには藤原家と皇室の“政治的な計算”がしっかり働いていたんだよ。
✅ なんで淳仁天皇が選ばれたの?
① 聖武天皇に男の子がいなかった
- 聖武には**阿倍内親王(のちの孝謙・称徳天皇)**という娘はいたけど、男子の皇子はいなかった。
- 当時、女性天皇は「中継ぎ」的ポジションという認識が強く、やっぱり「次は男の天皇を立てよう」という流れになる。
② 淳仁親王は“血筋そこそこ良い”+若くて従順そう
- 淳仁親王(じゅんにんしんのう)は、
→ 天武天皇の孫にあたる人物で、皇族の中でも血筋は「そこそこ良い」とされていた。
→ 父は舎人親王(とねりしんのう)=天武の皇子。
③ 藤原仲麻呂の“傀儡(かいらい)候補”として理想的だった
- 淳仁は、当時実権を握っていた**藤原仲麻呂(光明皇后の甥)**にとって、
→ 若くて、あまり政治的に前に出てこない
→ 自分の意のままに動いてくれそう
ということで、「こいつを天皇にすれば、俺が実質No.1やん!」ということで推されたのが大きな理由!
🧠 つまり、こんな感じ:
聖武が娘(孝謙)に譲位
↓
でも「女天皇続きはキツい」&「跡継ぎ男子いない」
↓
血筋まぁまぁで従順そうな皇族いないかな?
↓
藤原仲麻呂「淳仁、どう?」
↓
孝謙「いいけど、実権は私とお母さん(光明)が持つよ」
↓
758年:孝謙→淳仁へ譲位(でも内部ではゴタゴタ)
🧬 血縁図(簡略)
天武天皇(?〜686)
├── 草壁皇子(662〜689)
│ └── 文武天皇(683〜707)
│ └── 聖武天皇(701〜756)★曾孫(4代目)
│ └── 孝謙天皇(718〜770)
│ └── 養子:淳仁天皇(733〜765)
└── 舎人親王(676〜735)
└── 淳仁天皇(733〜765)★孫(3代目)

👆こうして見ると、淳仁は天武の孫にあたるから、
皇位には、近いポジションではあったわけ。

